少年野球教室 2011

恒例! 小平ポニーズ主催、『少年野球教室』を開催いたしました。
26チーム、総勢140名以上のご参加を頂きありがとうございました!!

上記チラシ、参加申込書のダウンロードはこちらをクリックしてください。

小平ポニーズでは、AEDを常備し、安全に野球ができるように配慮しています。

真如苑グランドへのアクセスは↓の地図またはコチラをご参考にどうぞ。


小野和幸(おの かずゆき)氏
1962年8月19日生まれ、秋田県秋田市出身の元プロ野球選手(投手)。
1980年のドラフト外で西武ライオンズに入団。二軍では1981年と1983年に最多勝、1984年に最優秀防御率を獲得。
1987年オフ、平野謙との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。中日への移籍1年目の1988年はオールスターゲームに初出場するなど活躍し、18勝を挙げ最多勝などのタイトルを取り、優勝に大きく貢献した。
翌年以降は故障などもあり活躍できず、1993年オフに自由契約となった。
1994年からは千葉ロッテマリーンズでプレーし、4勝を挙げたが、1995年は未勝利に終わり、同年限りで現役引退。
引退後はロッテのコーチを務め、2005年から四国アイランドリーグ・徳島インディゴソックスの監督に就任。翌年の2006年9月25日に辞任した。
ファーム通算63勝(イースタンで46勝、ウエスタンで17勝)は歴代最多記録。
唇の上にたっぷりと蓄えたヒゲがトレードマークで、しばしば「ヒゲの小野」と呼ばれた。

鈴木 健(すずき けん)氏
1970年1月13日生まれ、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(内野手)。
中学は「越谷リトルシニア」に所属し、高校は浦和学院高校に在学。高校通算本塁打83本は当時の日本最多記録。1986年の第68回全国高等学校野球選手権大会は準決勝に進出。翌1987年の第69回全国高等学校野球選手権大会で2回戦で敗退。オフにドラフト1位で西武ライオンズに入団。当初は早稲田大学進学を示唆していたために、逸材ながらも他球団からはノーマークであったが、地元埼玉県出身の強打者として鳴り物入りでの入団だった。自身と同い年、同じく87年1位指名、同じ左打ち右投げの内野手で中日ドラゴンズ入団した立浪和義からもライバル視されていた。
2年目の1989年に一軍初出場・初安打を記録し、オフに米1A・サンノゼビーズに留学。1990年はイースタン・リーグで打率.364、翌1991年は打率.401を記録し、2年連続でイースタン・リーグ首位打者に輝いた。1991年に一軍でプロ初打点、初本塁打を放った。
1993年に主に指名打者として起用されて打率.270を記録すると、1994年は規定打席不足ながら打率.350をマーク。1995年に三塁手のレギュラーを奪取すると、1996年は自身初の3割となる打率.302を記録し、1997年は巨人に移籍した清原和博の後を継いで四番打者に抜擢され、打率.312、19本塁打、94打点と自己最高の成績でチームのリーグ優勝に貢献した。出塁率.431はリーグ最高記録で、ベストナイン受賞。10月3日のダイエー戦では、吉武真太郎からサヨナラ本塁打を放ち、リーグ優勝を決めた。1998年にプロ入り初の135試合フル出場を果たしリーグ連覇に貢献。清原和博ら黄金期のレギュラーメンバーが次々にチームを去った後は、高木大成や松井稼頭央、大友進、小関竜也らと共に、東尾修監督率いる新生ライオンズの主力として活躍した。
2002年オフに金銭トレードでヤクルトへ移籍した。
2003年は、岩村明憲の故障を受けて三塁のレギュラーに定着した。春先から打撃が絶好調で、夏場まで首位打者を独走。終盤に打率こそ落としたものの、打率.317、20本塁打、95打点と自己最高の成績を更新し、リーグ最多の36二塁打を記録。ベストナインおよびカムバック賞を受賞した。2004年は岩村が復帰したのに伴い一塁へ転向した。オフにFA宣言をした後に残留。
2007年9月20日に、現役引退を表明。引退セレモニー・現役最終打席は10月4日の横浜戦(神宮)で、8回裏1死の場面で宮本慎也の代打で出場。横山道哉からファウルで粘りながらも15球目をセンター前にヒットを放った。

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